おはよう

始まる朝と始める朝

 

朝というのは無意識に一つの区切りをくれるいい機会なのかもしれませんね。そんな朝の雰囲気を少しでも感じていただけたら嬉しいです。

 

また、最先端の科学では私たちは一瞬一瞬に消滅と再生を繰り返しているのだそうです。しかし、その間隔があまりにも短すぎる(1秒の10の32乗(それくらい大きいという意味です。正確な数値は忘れました笑)分の1)ので私たちは気づいていないだけで…

しかし、朝というのは比較的その感覚に近いのではないかと思ったりもします。ぐっすり眠っていると6時間があっという間に過ぎてしまうじゃないですか?あれも一種の生まれ変わりだと解釈すればわかりやすいのかなぁって気もします。

私たちは一瞬一瞬に生まれ変わっている。そう思えれば過去に縛られずどんどんと成長したり変わっていくこともできるんじゃないかなとそんな願いも込めてみました。

一日のスタートを快適に切るお手伝いができたら幸いです。

youtu.be

 

以下歌詞

おはよう 作詞作曲 神田誠人

 

寝ぼけたまなこで コーヒーをいれて

寝癖を直して 今日がまた始まる

お気に入りの服に 着替えたのならば

新たな気持ちで 今日をまた始めよう

 

昨日とは違う何かを探しに行こう

 

さぁ心の準備はいいかい?

靴ひも結んで 玄関を開けよう

眩しい朝日に 目を凝らして

今始まる新しい朝におはよう

 

澄んだ朝の匂い 動き出した街

それぞれの想いを 胸に秘めながら

 

おぼろに見てた夢の続きを探そう

 

今日は晴れたから出かけよう

お気楽極楽 心の赴くままに

輝く太陽に元気もらって

また始まる新しい自分におはよう

 

振り返らずに 包まれた光の中へ

 

さぁ心の準備はいいかい?

靴ひも結んで 玄関を開けよう

眩しい朝日に 目を凝らして

今始まる新しい朝におはよう

今始まる新しい君におはよう



白紙の地図

白紙の地図に込めた想い

白紙の地図とは?

 

一番の冒頭にあるように僕たちは生まれた時から、地図に空白もなく、この先に行けばどこどこに繋がっているとか、あの山を越えた向こうにはなになにがあるなどわかった状態で生きています。では仮に何にもわからなかったら少し遠くの街へ出かけるだけでも、「この先には、あの山の向こうには何があるんだろう!?」って未知の冒険みたいな感じでもっとワクワクできたんじゃないのかなぁ…なんていう想いが僕の中でありました。
それに似たように僕はゆずさんに憧れて、シンガーソングライターを目指しました。もちろん初めはゆずさんの歌のコピーをやってそれはそれで楽しかったです。しかし、「これじゃ埋め尽くされた地図と何も変わんないな…」いつしかそんな風に思うようになりました。

そうは思っても自分に作曲なんてできるのだろうか?そんな風に思うこともありましたが、やってみたら意外と楽しくて、どんなへんてこな作品でも「自分で何かを生み出す」ということがこんなにも自分自身に勇気と感動を与えてくれるということがわかりました。
まさに「白紙の地図」とはまっさらな状態の地図に自分で書き込んでいくように自分自身で何かを生み出すことに挑戦しよう!そんなメッセージを込めました。

大筋のプロット

この曲は一番のサビからできあがり、憧れを抱いた青年の物語風に仕上げました。はっきりとは覚えてませんが、憧れをキーワードに詰めていた時にふと「白紙の地図」というワードがカチッとはまって全てが動き出したような気がします。もうその時点でタイトルは決まりましたね笑。

この物語の中の青年のたどる道筋を簡単にまとめると「憧れ」→「決別」→「挑戦」→「受容」となります。
「憧れ」の部分はとてもシンプルにゆずさんに憧れた自分をまんまにしつつ、それでも「憧れ」のままでは越えられない、そんなものも少し匂わせるようなものにしました。

「決別」の部分は一種の反抗期のようなものだと思います笑。実は一時ゆずさんのことがすごい嫌いになった時期もあって、もうゆずさんの歌なんて聴かない!そんな風に思うことさえありました。しかし、この「決別」の部分はそういった反抗期的な要素もありながら、どこまでいっても自分はゆずさんと全く同じ道を歩むことなんてできない。だからこそ、自分の道を歩いて行かなきゃ!といった必ずしもネガティブな感情だけではない「決別」になっています。
「挑戦」は主に二番のサビに当たりますが、この中で自分が特に気に入っているフレーズが「震えた心が羅針盤になる」です。この部分に込めた願いは「感動は与えられるものじゃない。自ら感動しに行かなきゃ!」です。ゆずさんの歌に何度も支えられたこともあります。ゆずさんの歌に感動して大泣きしたことだって何度もあります。でも、僕はゆずさんじゃない。でも僕はゆずさんに憧れたシンガーソングライターだし、ゆずさんの歌を聞いた時の胸の中の感動。これこそが絶対にヒントになるはずだと確信して、自分の物語を生きる決意をしました。前の「決別」の中では不完全燃焼だったエネルギーがここで1つのベクトルに集中して大きな力を与えてくれた気がします。もう「憧れ」だけでも「決別」だけでもなくその両方を受け入れて踏み出していくって感じですね。

「受容」の部分は最初はなかった部分ですが、作曲の段階で一見無関係そうな「ラララ」のメロディが思い浮かびました。このメロディはいったいなんだろう?と作った当初は見当もつかなかったのですが、これは「生きる喜びのメロディ」だと気づきこの曲に組み込むことを決めました。全く別のメロディだったので、どんな感じかな…っと弾いてみると「あれっ!?同じコード進行にまんま乗っかるぞ!!」一見無関係そうなメロディがむしろこの曲に一つの大きなテーマを与えてくれたような気さえしました。他者も自分も受け入れる覚悟と、それをかみしめて生きる喜びを感じることができたなら、白紙だったはずの地図にきっと一人一人それぞれの世界を描き出すことができるんじゃないか?そんな風に思いました。

 

是非みなさんも自分自身の白紙の地図にみなさんオリジナルの世界を描きましょう!

応援しています!

 

youtu.be

 

以下歌詞

白紙の地図 作詞作曲 神田誠人

 

生まれた時から埋め尽くされた地図

どこに行くにも先が見えてたのに

はるか遠く見えた影

追いかけながら僕は迷子になった

 

あなたの歌を道しるべに

僕は生きてます

 

大きな憧れを抱きながら

小さな一歩踏み始めた

眩しい光に照らされた

白紙の地図は気づけばここにあった

 

荒れ狂う雨風にさらされて

何も見えない中でもがいても

たしかなことは一つだけ

握りしめたら絶対に放さないんだ

 

あなたの歌に別れを告げて

僕は旅立つ

 

さぁ大海原へ航海に出よう

誰も知らないオリジナルストーリー

震えた心が羅針盤になる

宝の地図を握りしめどこまでも行こうよ

 

白紙のままの地図に何が見えた

心の声に耳を澄ませば

広がる無限の可能性たち

生きる喜びをかみしめ

ラララ…

あなたが今日も生きている

目の前の人を幸せにしよう!

ブログを始めて、自分も世の中のために何かできないか?そう考えることが増えました。そうしている中で、今自分が大切にしていることは色んな人と出会ってみようということです。さらに、そうして出会った人たちから何かを学ぼうとするのと同時に、逆に自分は何が与えられるのか?そんなことを考えるようになりました。

なにも大げさなことではなくできる限りのことをやるだけでも相手は喜んでくれることもわかりました。そういった小さなことを重ねていくことで、もしかしたら少しずつでも世界は良くなっているのかもしれないと思うようになったのです。というのも今日はそんな体験があったのでその話を書きたいと思います。

 

自分は昔ギターをやっていて、音楽仲間の先輩に色々教えてもらいました。初めのうちはまったくギターが弾けなかったので、先輩たちが自分のためにギターの伴奏を弾いてくれてそれに合わせて歌うという日々が続きました。絶対完璧だ!そうやって練習してきた曲も先輩たちのできと自分のできの差が大きすぎて先輩たちの前では尻ごもんでしまったこともありました。しかし、そんな日々を重ねる中でだんだんギターも上達してきて人前で一人で弾き語りできるようにまでなったのです。

 

とはいうもののやっていることは実はたいしたことはなかったりして、そんなに弾き語りができるということに自分自身がそこまで価値を感じていませんでした。しかし、今日は昔とは逆にギターが弾けない人の前で自分がギターで伴奏をし、歌ってもらうという経験をして「ああ意外とやれんじゃん!」と。歌を歌ってくれた仲間もとても感謝してくれて、自分もかつて先輩たちにしてもらったことを他人にしてあげられるようになったんだなぁ~ととてもうれしい気持ちになりました。

 

先輩たちに直接の恩返しにはならなかったかもしれませんが、先輩たちのしてくれたことを他人にもしてあげることで先輩たちの行ったよい縁起を繋ぐことができたんじゃないかと思っています。そう考えれば、よい縁起を繋ぐのは誰でもいいということになります。つまり、目の前の一人ひとりにそのよい縁起を繋いでいく。その連続でもしかしたら世界がよりよい縁起で満たされていくのかもしれません。今日はそんなことを考えました。

 

では本日は以上です!

自分一人でもうアイデンティティなんてわからない?

自分自身とは一体何か?そんな疑問を一度はみなさん考えたこともあるのではないでしょうか?私は結構しょっちゅうこんな事ばかり考えてしまいます。しかし、昔と今ではその考え方もかなり変化してきて、それが個人的に大きな発見であり、面白かったのでそのことについて本日は書きたいと思います。

 

そもそも自分自身を定義することが可能なのか?これが私の最近の一番の気づきであり、そして、答えは限りなく「NO」であるということです。これは苫米地英人さんの本の中でも繰り返し出てくる自我の定義の例から考えてもやはり「NO」なのではないかと私は考えます。この自我の定義の例とは、自分自身を定義しようとして要素を書き出してみると実際は自分に関係のある事柄しかあげることができず、自分自身の定義になっていないというものです。例えば、「私は○○さんの息子です。」は○○さんと自分との単なる関係性であって自分自身の説明にはなっていないなどがこの例です。父は○○、母は○○、出身は埼玉で、年齢は31歳など、どれだけ書き出してみても自分自身の説明ではなく自分との関係性を書き出すことしかできないということです。つまり、逆を言えば、その関係性こそが自分自身を規定しているということでもあります。それ故に自分自身を定義することはできないかもしれませんが、その関係性の説明によって自分というものを認識できるという面もありそうです。

 

次は最近本当にあった出来事の例を挙げてみたいと思います。私は普段から結構考え事をするタイプの人間です。なので、色んなことを妄想しては、こんな“新発見”があったと一人ニヤニヤしてしまうこともあります。ところが、もうずっと前に読んだ本を久しぶりに読み返してみたら、なんとその“新発見”とまったく同じ内容がそこに書いてあったのです。私はその本を読むまではその本の内容など一切思い出すこともできませんでしたし、まさか最近思いついた“新発見”がすでに読んでいた本の中に書いてあったとは思ってもみませんでした。つまり、何が起きたのかというと「私はすでにその本に影響を与えられていた」ということです。しかも、それは無意識のレベルにおいてです。私がその“新発見”を思いついた時には過去に読んだ本の内容だなんて微塵とも思っていなかったのですから。その読んだ当時意識にあがっていようが、いまいがそれらの影響を受けて自分の発想というものができあがっているということに気が付いたのです。

 

これってすごいことだと思いませんか?過去のありとあらゆる経験を意識にあがるあがらない関係なしに脳は処理をして今のアイデンティティを作っているということです。そう考えたら、自分自身ってもう定義する必要ないですよね?今考えているこの思考もすべて過去の様々な経験から作られているのですから。

 

そう考えるとこれからの自分自身としてのあり方も少し変わってくるのではないかと考えます。どういうことかというと、私たちは意識しようとしまいと「他人に影響を受けて、または与えて生きている」ということです。自分が思いついたと思ったことさえも、本当に自分自身の力だけで考え付いたのかは怪しいということです。何気なく言ったつもりの言葉が相手の中で一人歩きして、大きなひらめきに繋がったりもすることがあるということです。そう思うとこれから出会うであろうたくさんの人たちに自分はどんな影響を与え、また与えられて生きていくのか?そう思うとこれからの出会いの一つ一つを大切に思える気がします。よりよい「縁起」を出会った人と結ぶためにも、これからも自分がいいと思った言葉や発想を発信していこうと改めて思いました。

 

では本日は以上です!

学問を取り戻せ!

なぜ私たちは学ぶのか?本日はこの問いに対する自分なりの考えを書いてみたいと思います。ちなみに私なりの答えは「優しくなるため」です。さらに言うならば、理由などない、だからしいて言うならば「優しくなるため」ということですね。これは昨今の学問の立ち位置への警笛でもあります。

 

昨今、よくこんな言葉を目にします。「底辺の人間」「できる奴とできない奴」「仕事ができる人できない人」「稼げる人と稼げない人」これからの言葉の裏にはいったい何があるのでしょうか?私はこう考えます。私たちは知らず知らずの内に「差別主義的」になってしまっているのではないでしょうか?ようするに○○できる奴は偉くて、○○できない奴は偉くない、さらに言えば虐げられて当然だと。でなければこんな二項対立はそもそも発想として生まれないはずです。

 

ではこの「差別主義」別の言葉で言えば「現代カースト制度」はどうして生まれたのでしょうか?その一つの可能性として学問の間違った見方にあるのではないかと思います。現代において学問というものが一つの単なるステータスとなってしまっていることがその原因です。ちなみに学問を身に付けること自体はとても大切なことであり、むしろ、どんどん身に付けて欲しいと思っています。しかし、その目的が間違ってしまうとこれはたちまち「差別主義」的思想に繋がってしまうので注意が必要です。

 

私自身もそうでしたが現代の高校生にとって大学を選ぶ理由は将来の就職のためになってしまっています。また、大学の研究もその分野での権威の椅子取りゲームと化してしまっています。つまり、このような状況下では学問というものが、そのまま「誰かを振るい落すための単なるシステム」ということになってしまっているのです。ゆえに昨今では学問を学びたくさんの知識を得たはずの人たちがなぜか問題解決以上に相手をこき下ろすような光景をたくさん目にするようになりました。私はこれはとても危険なことではないかと思います。

 

では、学問と私たちはどのように付き合っていけばいいのか?答えは簡単です。「自分の興味のある分野について、それが役に立とうが立つまいが研究していくこと」です。わかりやすく言えば、「自分の好きなことを好きなだけ研究しなさい」ということです。これは何も学問だけに言えることではありません。そもそも知識というものは学問の領域だけではないはずです。よく頭が悪いとかいいとかいいますが、実際はそんなに大した差はありません。それは単に知っている知識の偏りがあるというだけです。例えば、受験一つとってみても英語が得意な人は確かに英語のテストの点数が高いでしょう。ただし、それは英語の問題が出る前提があるからそう見えるだけで、頭のよさや悪さとは関係がありません。例えば、受験に音楽の問題が出たとしたら、英語しか勉強してなかった人には不利にはたらきますし、音楽を勉強してきた人には有利になるだけの話です。もっと極端な例を出せば、受験に芸能人やアイドルに対する問題があったら、それに詳しい女性や、オタクが有利になることだってあるのです。つまり、そもそもある特定の分野の情報を知っているかどうか以外何も計れていないのです。ですからそもそも頭がいいか悪いかを気にすること自体が無意味なのでそれは考える必要がないということをここでは強調しておきます。

 

さて、では学問をする上で頭の良し悪しは関係ないことがわかったところで、ではなぜ学問を学ぶ必要があるのか?それは最初に書いたように「優しくなるため」です。どうしてこのようなことが言えるのかというと、次のことを考えてみるとわかりやすいと思います。「相手のことを知らなくて、優しくできますか?」おそらくできないと思います。だから、研究するのです。植物のことを詳しくなかったら植物に優しくできませんし、動物でも同じことが言えそうです。ということは全てのことで同じことが言えるのではないでしょうか?人間について知らない人が、人間に優しくできるのか?体のことが解らずに体調を管理できるのか?できないでしょう。だから、どんどん自分が好きで大切にしたい物や、人、思想、哲学、学問なんでもかまいません。それらを好きなだけ研究してみてください。そしたら、その研究した分野をもっともっと大切に思えるはずです。この気持ちが学問をする上では大切なのではないかと私は考えます。

 

どうですか?これが私が考える「学問は優しくなるためにするもの」とうことです。自分の知識で相手を否定したり、攻撃したりするためではなく、自分の好きな分野をより大切にできるようにどんどん知識を身に着けていきましょう。天動説を信じようが、地動説を信じようが星が綺麗なことに変わりはありません。ならばあなたはどんな物語をそこに見出すのか?それが学問、しいては学んでいくという姿勢なのではないでしょうか?

 

では本日は以上です!

「空」を知れば、心が軽くなる!?

私が普段から心がけている仏教の教えが「空」という考え方です。本当は専門的な本をしっかりと読んでほしいのですが、さわりだけでも教えたいと思います。「空」とは簡単に言えば、物事の観察方の一つだと思ってください。「空」とはあらゆる偏見を捨て、物事をありのまま見ることです。文字にするとそんなことかと思うかもしれませんが、この偏見を捨てるというのは並大抵のことではありません。というのもこの偏見を捨てるとは本来どういう意味かというと、「頭の中の情報を一切使わずに物事を見よ」です。無理ですよね笑。そうなんです、普通にしていたらまず不可能なんです。ただし、仏様はそのことをちゃんとわかっていたので、「ならまず私たちは常に偏見の中にいることを自覚しなさい」と言っているのです。そう実は仏様は意外と寛容で現実主義なんですよ笑。この頭の中の情報を一切使わずに物を見ようとするのが「空観(くうがん)」、この見えている偏見がまぎれもない真実だと思うことを「仮観(けがん)」といいます。仏様はこの両方を試して自分がより納得いくちょうどいいところを探しなさいと言っています。これを「中観(ちゅうがん)」といいます。この観察方は物理現象はもちろん、自分を知る上でも大切な方法になります。心がけてみると面白いものが見えてきますよ。

 

「あると言えばあるし、ないと言えばない」これが「空」をわかりやすく理解する方法かもしれませんね。例えば、「幽霊は本当にいるのか?」と質問された場合、空観的には信じている人には見えるし、いないと思っている人には見えませんよといった具合です。これを仮観的に見ると幽霊は絶対いる、もしくは、絶対にいないとなります。ではこの見方の違う人が同じ場所で議論を始めたらどうなるでしょう?それは喧嘩になりますよね笑。絶対いる、もしくは絶対いないという人にこんな曖昧な回答は通じませんよね。そこで間をとって機能的に見た場合どうなるか考えてみましょう。守護霊を信じている人にはおそらくそれはいるでしょうし、何らかのご加護を受けていると感じるなら、それはそれでいいのではないでしょうか?それを信じることによって人生を前向きに生きることができるのなら、それは良いものの見方だと思います。

 

このことを踏まえて「空観」というところに立ち返ってみましょう。最後の機能的に見るという方法は実は一番はじめに説明した「中観」という見方になります。この「中観」には「空観」だけでも「仮観」だけでもたどり着けません。その両方の見方の中から一番バランスの良いところが「中観」なのです。そして、私たちはどちらかと言えば、普段は何気なく「仮観」でものを見てしまっています。つまり、幽霊は絶対いるか、いないかで見てしまっているのです。それは過去の経験や、知識で作られた記憶をもとに見ている現実といってもいいでしょう。ですから、そこから一度「頭の中の知識を使わずありのままを観る」必要があるのです。そうすることでもし幽霊がいるならどんな機能を持たせることができるか?ということが考えられるようになるのです。逆もしかりで、いないと説明することでそこにどんな機能を持たせることができるのか?ということも考えられるようになります。

 

どうですか?少しは「空」について理解していただけましたか?この考え方はあらゆることに応用できますので、心の隅にでもおいてもらえたら嬉しく思います。私たちは普段無意識に今までの経験や知識で物事を見てしまいがちです。そこで一度「空」に立ち返ってみて、「空観」と「仮観」のちょうど良いところを日々探して行きましょう。そうすると、自然と人ともめることも少なくなりますし、多様性豊かな様々な人の個性をありのまま受け入れられるようになりますよ。是非お試しください。

これからの時代の働き方

神田誠人の菩薩業

 

お金のためにではなく、本当にお金から自由になり、本当の今を生きる知恵

 

自由とは何か?

 

人々は技術の発展と共に様々なテクノロジーを生み出し、私たちは日々その恩恵を受けて生活しています。世の中にはいわゆる「便利」なものが溢れている。そして、いつしか私たちはその「便利」なシステムの中に組み込まれる形で生活をすることとなっていく。各地に備えられた自動販売機ではお金を入れれば、飲み物は手に入るし、コンビニに行けば、おにぎりや好きなお菓子だって手に入る。電車に乗れば遠くの街にもすぐに行ける。スマホを使えば遠くの友達とも瞬時に繋がることができる。とても「便利」な世の中です。とても「便利」である一方私たちは大切なものを見失いやすい状況にも陥っている。そのもっともたるものが「お金」ではないでしょうか。私たちはこの「便利」が当たり前になってしまった世界では「お金」さえあればなんでもできるかのような感覚の中で生きている。それは一つの現実ではありますが、本質ではないのです。よくこんな言葉を耳にします。「食べるために働く」つまり、食べるため、生活をするためにお金を稼ぐのだと。現在の世界では実質的に意味は同じではあるものの、やはりこれは本質から外れています。なぜなら「お金」そのものは食べることができないからです。では、次のことを想像してみてください。「もし1000万円持っていたらあなたはどんなことをしますか?」ここでは嘘をつく必要はないので、自由に考えてもらってかまいません。高級車を何台も買いたいでも、世界中を旅したいでも、貯金してとっておくでもなんでもかまいません。嘘いつわりなく考えられましたか?ではもしこんな前提だったとしたら、どんな風に気持ちが変わるか考えてみてください。「でも世界にはあなた一人しかいません。」えっ?こんなことは想像もできないですよね。さすがに極端だったので、「世界に二人きりで、それはお互い異性で、まさにアダムとイブになったような状態」としましょうか。それでもあなたは同じようなことを考えますか?高級車に乗りたかった人はまずそれを作るところから始めなければいけません。そのためには資源を調達し、そして、それを加工する工場を作らなければいけません。そして、なにより生活をしていくために農作業もしなければいけません。でも手元には一人当たり1000万円あるので、合計で2000万円あるのです。でもこんな世界ではこの「お金」は単なる紙切れでしかないのです。つまり、お金とは払う相手がいてやっとそこに価値が生まれるのです。だから、いくらお金を持っていようと「価値を提供してくれる人」がいないことには、そのお金の価値はゼロということになります。1000万円もあるのにゼロなのです。ということは当然「お金があれば自由だ」は成り立たなくなります。「お金があれば自由だ」と考えるのは自由ですが、お金の稼ぎ方だけを身に付けて、自分は自立しているなどいう考えはお勧めしません。なぜなら、そもそも私たちは相互依存、つまり、価値と価値の交換の中でしか生きられないのですから。つまり、自由など本当の意味ではどこにもないのです。しかし、私たちは自由を求めるでしょう。そして、求めていいのです。そこでヒントになってくるのは「なぜ私たちは働くのか?」ということです。この本質に気づけば、私たちはその瞬間から自由を手にすることができます。ついでに、差別も争いもゼロにはならなくとも限りなく少なくなるのです。では働くとは何か一緒に考えてきましょう。

 

なぜ私たちは働くのか?

 

これを考えるためには先ほどの「アダムとイブの仮定」を使ってみましょう。世界に二人だけしかいない場合、食べ物の調達から住処の建造まであらゆることを自分たちでやらなければなりません。話を分かりやすくするために、現代のテクノロジーの知識は全てあることとし、寿命を80歳程度と考えてその中ですべての文明レベルを手に入れると仮定します。この時最初の何年かの仕事はどんなものになるでしょう?農作業をしてお米を作らなければならないでしょうし、それをより効率よく行うために道具を作るのも仕事です。また、住むための家を作ったり、木を切ったり、それらを加工したりするのも仕事です。では、時間を数年経過させます。すると、家は作ったら壊れない限りは使い続けられますし、作った道具も同様です。すると、それらを作るのに必要だった時間は余りますので、別のことをすることができます。では、稲作をより効率的にやるために川から水路を引っ張って水を引き入れる仕組みを作ることにしましょう。そして、また時間を進めます。すると、稲作の効率がよくなって、より多くのお米が採れるようになりました。多くのお米が採れるようになったので、二人では食べきれないですし、田んぼの面積も広くなってきたので子供を作って手伝ってもらうことを考えました。では、また時間を進めます。人手も増え、農作業の効率はさらにあがったので、暇を持て余すようになります。するとみんなその暇な時間を使って趣味を始めます。そしてある時、最初は趣味のつもりで、つまり、好きでやりたくてやっていたことが家族を喜ばせていることに気づきます。例えば、魚取りが好きだったお父さんがそれを焼いて食べてみたところ、非常に美味しくて、家族にも食べさせたら喜んでもらえたといった具合です。もうここまでくれば想像もつくと思いますので、仮定の話はここまでにします。

 

実は上の生活の延長線上に私たちの今があるのです。そして、それはどんな時代になってもこの本質の部分は変わりません。ではわかりやすくするために私たちの暮らしが豊かになる仕組みについてまとめてみます。

 

生きていくために必要なこと

1 生物レベルで必要なこと(食べ物、住処)

2 発展的に生物レベルで必要になったこと(道具、設備)

3 集団生活で必要になったこと(共通のプラットフォーム、法)

4 暇になって必要になったもの(暇つぶし=趣味)

5 発展的に暇が与えたもの(仕事、価値、生きがい)

 

これらは全て繋がっていますが、数字が小さくなるごとに生物の根本的に必要なことになっていきます。すごく乱暴に言ってしまえば、人間は住処と食べ物があれば最悪生きていけるけれども、もて余した時間で楽しいことしたいよねという話です。お金はここでは3に該当します。つまり、単なる決め事であって、ツールです。昔は物々交換だったものを手続きを簡単に済ませるために作られたものがお金です。しかし、この3の中にある共通のプラットフォームが誕生したことによって、私たちの生活は激変したといっても過言ではないでしょう。今現在では日本全国どこにも道路が整備され、発電所からは電信柱伝いに電気はどこまでも届き、携帯の電波は全国でつながるようになっています。ここで注目し欲しいのはこのプラットフォームの維持なしに私たちの発展はないということです。どういうことかというと、例えば車産業にしても、そもそも道路がなければ成り立たないですし、工場を動かすためには電気も必要でしょう。つまり、産業の発展は共通のプラットフォームを前提としないと成り立たないということです。そして、その共通のプラットフォームも突き詰めていくとそれだけでは成り立たないのです。例えば、道路がいくら整備されても、車で運ぶものがなければ機能しないですよね?発電所も電信柱が全国に張り巡らされても、電気を作れなかったらなんの機能も果たしません。これは何を表しているのか?実は私たちの共通のプラットフォームを機能させるためには、最終的には資源と人材、手っ取り早くいうと「仕事」が必要なのです。そして、人が仕事をするためには当然生活をしていかなければいけないので、そこには農業などの一次産業が前提になってきます。つまり、私が前章で本当の意味で自由はどこにもないというのはこのことなのです。私たちは本当の意味で独立して存在することができないということです。この事がわかると実はそこに救いがあることも見出すことができるのです。このことを理解することで仕事観が変わります。そして、その仕事観があなたを自由にするのです。

 

自由に働くとは?

 

ではこれまでの話を踏まえて、みなさんに質問します?「じゃあ仕事ってなんだと思いますか?」色んな答えがあると思います。お医者さんです!農家さんです!配送トラックのドライバーです!大学の研究員です!国会議員です!社長です!と職業の名前をや役職を想定された方。残念ですがそれは従来の仕事観です。ではヒントを与えます。そもそも私たちの生活は独立して、もう一回言います、完全に独立して成り立たせることができないのです。ではお医者さんから考えていきます。お医者さんはいくら難しい勉強をしてきたとは言え人間です。患者さんを元気にするためにはまず病院に勤めなければいけないので、病院を建てた人たちと無関係にはなれませんね。また、診察の際に使う道具も作ってくれた人がいなければできないので、無関係ではありません。そして、その道具を作る際には当然資源が必要ですし、工場を動かすために電気が必要なら発電所、さらにそこで燃やされる石炭が必要になります。つまり、お医者さんという職業は上にあげただけでも建設業、製造業、サービス業、そして、ご飯も食べないとすべての人は活動できないので一次産業とこれらの何一つが欠けても成り立ちません。ではこのことから逆説的にこんなことが言えるのではないでしょうか?「建設業も製造業もサービス業、一次産業もすべてお医者さんです。」そんなはずはないと思いましたか?でも実際は病院がなければ診察できませんし、使う道具がなければ困ってしまうでしょうし、お腹が空いていたら満足に働けないでしょう。しかし、実はまだこれだけでも不十分です。なぜならここで行き着いた答えも単なる職業の名前でしかないからです。ではここでもう一つヒントを追加します。「もし仮に「建設業も製造業もサービス業、一次産業もすべてお医者さんです。」が正しい場合、それによって利益をもたらされるのは誰ですか?」ということです。これは最終的なお医者さんのところで見るのがわかりやすいでしょう。当然利益を得るのは、お医者さんが診察した患者さんですよね。診察を受けて、適切な処置をしてもらい、元気になったのは患者さんのはずです。とするならば、上にあげた全ての産業の人たちが協力して「その患者さんを元気にした」ということができないでしょうか?とするならば、上にあげた全ての産業の人たちはお医者さんだとも言えますし、患者さんを元気にする人たちだといえるはずです。そうです。これが本当の自由な仕事観です。「人に価値を提供すること」こそが仕事なのです。なので人を職業で分けるということ自体が実はナンセンスなのです。例えば、あなたがコンビニの店員だったとしても、あなたは同時にお医者さんになることができるのです。なぜなら、あなたがおにぎりを販売したからこそ、そこで買い物をしたお医者さんはお腹が空かずに済んで診察することができたのです。間違いなくお医者さんにも患者さんにも少なからず影響を与えているのです。これが全ての職業は独立して存在することができないということです。であるならば最初から分けなければいいのです。職業で分けるのではなく、「自分が提供したい価値」を仕事にすればいいのです。ではその提供したい価値はどのようにすれば見つかるのでしょうか?それも一緒に探しにいきましょう。

 

提供したい価値は簡単に見つかるが簡単に見つからない?

 

提供したい価値を探すうえでみなさんに最初に取り組んでいただきたいことはとてもシンプルです。それは「心の底からやりたいこと」を探すことです。この時点では「人に価値を与えられるか」は度外視にしてかまいません。この時点で「価値を与えられるか」を視野にいれて考えると上の条件の「心の底からやりたい」が満たせない場合があるからです。もちろん、勝手に入っていた方はかまいませんが、とにかくこの時点では「人に価値を与えられるか」を無視して、「心の底からやりたいこと」を探してください。そして、可能な限り実際にやってみてください。これは本当に難しいですが、ぜひ挑戦してみてください。その理由としては「やりたいと思っていたことと、本当にやりたいことは必ずしも一致しない」からです。さらに言うならば、「本当にやりたいことは意外と自分自身でもわからない」からです。やりたいことをやらずに先延ばしにしてしまうのは、とてももったいないことです。例えば、今すぐできることを「10年後に○○しよう」とするのはおすすめしません。仮に10年後、本当にそれがやりたいことであった場合、それは結果オーライになりますが、そこで「あれっ!?思っていたのと違うな?」なんてなってしまってはその10年がもったいないです。この「あれ!?思っていたのと違う?」という違和感がとても大切なのです。これを繰り返さないうちには本当にやりたいことには中々たどり着けません。たとえどんな小さなことでも構わないので、やりたいと思ったことには積極的に挑戦していきましょう。そのうちに自分が本当にやりたいことが自然と見えてくるはずです。ではある程度やりたいことが見えてきた人は次のステップに進みます。それは「その本当にやりたいことでどんな価値を提供したいか」を考えていきます。価値といっても大げさに考えることはありません。簡単に「こんな方法で人を喜ばせたい」といったものでかまわないのです。大切なのは自分自身が本当に望むことであるというのが大前提です。そして、さらに次のステップに進みます。それは「それを達成するために社会とどのように繋がるのか」を考えていきます。ここがこの章の肝になります。これによって、やりたいことを仕事と趣味にカテゴリー分けしていくのです。例えば、「歌うことが好きで、歌うことで人を喜ばせたい」としたとします。この時これを実現するために社会とどのように繋がるかを考えると様々な選択肢が想定できます。例えば、本当に歌手になって、大勢の人の前で歌うことで達成できそうだと思ったら、それは仕事になります。逆に、思ったほど歌である必要はないな、むしろ、別の方法で人を喜ばせられないか…と考えたならばこれは趣味になります。この時趣味になったものはやめる必要はありません。むしろ、趣味としてもっともっと極めて行くのをお勧めします。大切なのはどんどん好きなことを見つけて、それを仕事と趣味にカテゴリー分けしていくことなのです。この選択肢が増えれば増えるほどみなさんの人生は豊かになりますので、このカテゴリー分けの習慣を是非身につけて欲しいと思います。

 

なぜ仕事と趣味を分けるのか?

 

とても簡単な言い方をすれば「仕事は社会のために」「趣味は自分のために」するものだからです。しかし、分けると言っても本当の意味では分かれません。それは前の章で話したことと関連します。この仕事と趣味を分ける前はなんだったのかを思い出してみてください。そうです。「あなたが本気でやりたいと思ったこと」のはずです。であるならば、こう言いかえることができるのではないでしょうか?「私の仕事は誰かの趣味であるように、誰かの仕事は私の趣味でもある」さらにいいます。「であるならば趣味は仕事を活かし、仕事は趣味を活かすことができる」ということです。このことから導けるのは「私たちは好きなこと以外やる必要がない」ということです。ここで勘違いして欲しくないのは、その好きなことの選択肢を増やす作業をやめないことです。選択肢の幅が増えるということはそれだけ様々なものの影響を受けて生きることができるということです。趣味が増えれば増えただけ、それが仕事にも活き、またその仕事が活きれば趣味がより輝きます。

 

でもお金は必要なんじゃないの?

 

もちろん必要です。ですから、お金の目標も自分で決めればいいのです。要するに「○○したい」のところで、「年収1000万稼ぎたい」と設定すればいいだけです。この時考えて欲しいことがあります。それは本当にやりたいことをやるために必要なだけの金額を設定することです。前の章でも説明したようにお金は単なる道具でしかありません。あなたにとって社会に価値を提供することが目的であって、1000万円稼ぐことが目的になってはいけません。あくまで価値を提供するために必要なお金を稼ぐのです。

 

最後はバランス感覚

 

ここまでの話をまとめてみたいと思います。

 

・仕事は完全に独立して成り立つものはない

・提供したい価値が仕事の本質

・仕事は社会のために、趣味は自分のために

・誰かの仕事は自分の趣味、自分の仕事は誰かの趣味

・価値の提供に必要なお金を稼ぐ

・本気でやりたいことだけやる

 

これらは全て繋がっています。その大前提となるのが仕事は完全に独立して成り立つものではないということです。この大前提は私たちに大きなヒントを教えてくれるのです。一番下にやりたいことだけやると書きましたが、これは矛盾するのでは?と思った方もいると思います。お金も稼がなきゃだし、価値が提供できないことは意味がないんじゃないか?と。それはそれで一理ありますが、やはりこの大前提がそれを解決してくれます。例えば、歌が好きだから、歌だけ歌っていればいいのか?答えは、最初はそれで構わないけれども、大きな視点を持てばおのずと変わるのです。歌を歌うことで価値が提供できるならどんどんやるべきです。なぜなら歌を継続的に歌うためには生計を成り立たせなければいけませんので、たとえ歌でお金を稼げなかったとしても、他の方法で収入を得ているはずです。まずそこでも社会に価値を与えていますし、メインの収入が別の仕事であっても、歌で人を喜ばせていたならばその人の仕事は歌手です。その歌手という生活の中に働くというものが包括されているのです。つまり、はじめから「歌を歌いたい」の中には本質的には「仕事をすること」が含まれていたのです。これはあらゆることに言えます。ですから「やりたいことだけやる」というのはその「やりたいことだけをやる」を成立させるためのあらゆる行動をもともと含んでいるのです。ですから、やりたいことだけやると自然とそれを社会の関わりの中でどのように継続的に行うかを考えることができるようになるのです。なので、もともと人はやりたいこと以外できないのです。今そう見えていなくても、どこかで必ず繋がっています。どこかで何かの影響を受けて今もやりたいことをやっているはずなんです。だから、迷わずに「やりたいことだけ」やってみて欲しいのです。その「やりたいこと」が折り重なった時、そこにその人の「生き方」が生まれるのです。そして、この「生き方」こそが「社会に価値を提供すること」であり、「仕事」なのです。そして、その「生き方」はみんなで探していくものです。私たちは独立して存在することができないのですから。そして、この「生き方」を探す旅は死を迎えるまで終わりません。なぜなら「生き方」は「逝き方」でもあるからです。裏を返せば、死ぬまでずっと「生き方」を発展させることができるのです。さぁこの知恵を手にしたみなさんはもう「生き方」を探す旅の真っ最中にいることがわかったと思います。大げさなことはいいません。私もまだまだ旅の途中です。みんなで一緒に探せばいいのです。もともと一緒なのだから。一緒に素敵な「生き方」を探しに行きましょう。

 

たとえそれが地味でもね(笑)