自分一人でもうアイデンティティなんてわからない?

自分自身とは一体何か?そんな疑問を一度はみなさん考えたこともあるのではないでしょうか?私は結構しょっちゅうこんな事ばかり考えてしまいます。しかし、昔と今ではその考え方もかなり変化してきて、それが個人的に大きな発見であり、面白かったのでそのことについて本日は書きたいと思います。

 

そもそも自分自身を定義することが可能なのか?これが私の最近の一番の気づきであり、そして、答えは限りなく「NO」であるということです。これは苫米地英人さんの本の中でも繰り返し出てくる自我の定義の例から考えてもやはり「NO」なのではないかと私は考えます。この自我の定義の例とは、自分自身を定義しようとして要素を書き出してみると実際は自分に関係のある事柄しかあげることができず、自分自身の定義になっていないというものです。例えば、「私は○○さんの息子です。」は○○さんと自分との単なる関係性であって自分自身の説明にはなっていないなどがこの例です。父は○○、母は○○、出身は埼玉で、年齢は31歳など、どれだけ書き出してみても自分自身の説明ではなく自分との関係性を書き出すことしかできないということです。つまり、逆を言えば、その関係性こそが自分自身を規定しているということでもあります。それ故に自分自身を定義することはできないかもしれませんが、その関係性の説明によって自分というものを認識できるという面もありそうです。

 

次は最近本当にあった出来事の例を挙げてみたいと思います。私は普段から結構考え事をするタイプの人間です。なので、色んなことを妄想しては、こんな“新発見”があったと一人ニヤニヤしてしまうこともあります。ところが、もうずっと前に読んだ本を久しぶりに読み返してみたら、なんとその“新発見”とまったく同じ内容がそこに書いてあったのです。私はその本を読むまではその本の内容など一切思い出すこともできませんでしたし、まさか最近思いついた“新発見”がすでに読んでいた本の中に書いてあったとは思ってもみませんでした。つまり、何が起きたのかというと「私はすでにその本に影響を与えられていた」ということです。しかも、それは無意識のレベルにおいてです。私がその“新発見”を思いついた時には過去に読んだ本の内容だなんて微塵とも思っていなかったのですから。その読んだ当時意識にあがっていようが、いまいがそれらの影響を受けて自分の発想というものができあがっているということに気が付いたのです。

 

これってすごいことだと思いませんか?過去のありとあらゆる経験を意識にあがるあがらない関係なしに脳は処理をして今のアイデンティティを作っているということです。そう考えたら、自分自身ってもう定義する必要ないですよね?今考えているこの思考もすべて過去の様々な経験から作られているのですから。

 

そう考えるとこれからの自分自身としてのあり方も少し変わってくるのではないかと考えます。どういうことかというと、私たちは意識しようとしまいと「他人に影響を受けて、または与えて生きている」ということです。自分が思いついたと思ったことさえも、本当に自分自身の力だけで考え付いたのかは怪しいということです。何気なく言ったつもりの言葉が相手の中で一人歩きして、大きなひらめきに繋がったりもすることがあるということです。そう思うとこれから出会うであろうたくさんの人たちに自分はどんな影響を与え、また与えられて生きていくのか?そう思うとこれからの出会いの一つ一つを大切に思える気がします。よりよい「縁起」を出会った人と結ぶためにも、これからも自分がいいと思った言葉や発想を発信していこうと改めて思いました。

 

では本日は以上です!