「空」を知れば、心が軽くなる!?

私が普段から心がけている仏教の教えが「空」という考え方です。本当は専門的な本をしっかりと読んでほしいのですが、さわりだけでも教えたいと思います。「空」とは簡単に言えば、物事の観察方の一つだと思ってください。「空」とはあらゆる偏見を捨て、物事をありのまま見ることです。文字にするとそんなことかと思うかもしれませんが、この偏見を捨てるというのは並大抵のことではありません。というのもこの偏見を捨てるとは本来どういう意味かというと、「頭の中の情報を一切使わずに物事を見よ」です。無理ですよね笑。そうなんです、普通にしていたらまず不可能なんです。ただし、仏様はそのことをちゃんとわかっていたので、「ならまず私たちは常に偏見の中にいることを自覚しなさい」と言っているのです。そう実は仏様は意外と寛容で現実主義なんですよ笑。この頭の中の情報を一切使わずに物を見ようとするのが「空観(くうがん)」、この見えている偏見がまぎれもない真実だと思うことを「仮観(けがん)」といいます。仏様はこの両方を試して自分がより納得いくちょうどいいところを探しなさいと言っています。これを「中観(ちゅうがん)」といいます。この観察方は物理現象はもちろん、自分を知る上でも大切な方法になります。心がけてみると面白いものが見えてきますよ。

 

「あると言えばあるし、ないと言えばない」これが「空」をわかりやすく理解する方法かもしれませんね。例えば、「幽霊は本当にいるのか?」と質問された場合、空観的には信じている人には見えるし、いないと思っている人には見えませんよといった具合です。これを仮観的に見ると幽霊は絶対いる、もしくは、絶対にいないとなります。ではこの見方の違う人が同じ場所で議論を始めたらどうなるでしょう?それは喧嘩になりますよね笑。絶対いる、もしくは絶対いないという人にこんな曖昧な回答は通じませんよね。そこで間をとって機能的に見た場合どうなるか考えてみましょう。守護霊を信じている人にはおそらくそれはいるでしょうし、何らかのご加護を受けていると感じるなら、それはそれでいいのではないでしょうか?それを信じることによって人生を前向きに生きることができるのなら、それは良いものの見方だと思います。

 

このことを踏まえて「空観」というところに立ち返ってみましょう。最後の機能的に見るという方法は実は一番はじめに説明した「中観」という見方になります。この「中観」には「空観」だけでも「仮観」だけでもたどり着けません。その両方の見方の中から一番バランスの良いところが「中観」なのです。そして、私たちはどちらかと言えば、普段は何気なく「仮観」でものを見てしまっています。つまり、幽霊は絶対いるか、いないかで見てしまっているのです。それは過去の経験や、知識で作られた記憶をもとに見ている現実といってもいいでしょう。ですから、そこから一度「頭の中の知識を使わずありのままを観る」必要があるのです。そうすることでもし幽霊がいるならどんな機能を持たせることができるか?ということが考えられるようになるのです。逆もしかりで、いないと説明することでそこにどんな機能を持たせることができるのか?ということも考えられるようになります。

 

どうですか?少しは「空」について理解していただけましたか?この考え方はあらゆることに応用できますので、心の隅にでもおいてもらえたら嬉しく思います。私たちは普段無意識に今までの経験や知識で物事を見てしまいがちです。そこで一度「空」に立ち返ってみて、「空観」と「仮観」のちょうど良いところを日々探して行きましょう。そうすると、自然と人ともめることも少なくなりますし、多様性豊かな様々な人の個性をありのまま受け入れられるようになりますよ。是非お試しください。